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科学研究費助成事業

研究概要・成果

私と科研費

「私と科研費」は、科研費の広報活動の一環として、これまで科研費によって研究を進められてきた方々や現在研究を進められている方々の科研費に関する意見や期待などを掲載するため、平成21年1月に新設したものです

毎月1名の方に原稿を執筆していただいています。



No.73(平成27年2月発行)

「私の研究履歴のなかの科研費と学振」

氣賀澤 保規 明治大学東アジア石刻文物研究所 所長
氣賀澤 保規
明治大学東アジア石刻文物研究所 所長・東洋文庫研究員

平成26年度に実施している研究テーマ:
「唐宋時代の「巡礼」と移動をめぐる社会史的研究 」(挑戦的萌芽研究)

私は30歳過ぎに京都の佛教大学に最初の職を得、次いで富山大学に移り、そして明治大学で19年間勤務して、先ごろ定年をもって大学に籍を置く生活に一区切りをつけた。この40年近い研究生活を振り返るとき、その節目、節目に科研費と学振(日本学術振興会)の存在があり、前に強く押してくれたことを深く感謝している。
     中国史を専攻する私が学生時代を送った当時、中国は文化大革命(文革)の最中であり、「友好人士」なる一部のものを除いて現地を訪れることは許されない。その後、中国政府の留学生受け入れが始まるが、すでに職に就いていた私にはその枠はなかった。しかし中国を研究の対象とするものとして、是非一度はあの黄色の大地に立ち、悠久の歴史と向き合う必要がある。そう秘かに心に決めていた私に留学の機会を与えてくれたのが、中国政府と学振との間で初めて結ばれた研究者相互派遣の協定であった。私はそのお蔭で特定国派遣研究者(長期)として1985年9月から翌年8月末までの1年間、北京大学と陝西師範大学(西安)で生活できた。
     80年代半ばの中国はまだ貧しかった。だが大学では、文革で荒廃した学問を立て直すために教師も学生も必死で、活気にあふれていた。その盛り上がり始めた息吹のなかで、私はこの国を担う多くの俊秀と知り合い、胸襟を開いて語り合える仲となった。今に及ぶ交友を通じて、どれだけ知的啓発と研究上の助けを得たか分からない。
    この留学はまた様々なテーマや素材を与えてくれた。その一つに、北京市郊外の山中の洞窟に納められた、4千点を越える石碑の経典「房山石経」の問題があった。主たる時代は7-9世紀の隋唐時代、中国側の資料整理は進んでいたが、研究は未着手状態にあった。対外開放されて最初にその現地に立ち、中国史の本質にかかわる意義を体感した私は、帰国後すぐに富山大学の同僚と研究班を組織し、科研費を得て『中国仏教石経の研究』(京都大学学術出版会)という成果につなげた。他日、地方大学でもこうした共同研究ができるのかと評価され、NHK教育テレビでは「石の経典」の特別番組を作ってくれた。
    その後明治大学に迎えられ、東京の中心で暮らすことになるが、忙しい生活に追われ、いつしか研究面でのマンネリと枯渇を感じ始めた。そこでサバティカルを得て、今度は外から中国・アジアそして日本を見直してみたいと、ハーバード大学に1年間、客員研究員(Officer)として研究に従事した。9.11同時多発テロの翌年、2002年である。東アジア研究の拠点となるハーバード・エンチン図書館に籠り、合間には大学院の授業に出、昼休みには院生たちと駄弁るのを日課とし、気分はすっかり学生時代にもどった。また誘われて学内の様々な行事や講演会に顔を出し、諸方面の研究者と交流しながら、アメリカの大学システムの大枠を了解し、それが後日役立った。
    アメリカで暮らすなかで私はある種の危機感を覚えた。かつて日本は中国・東アジア研究をリードした。その頃の欧米系の研究者は決まって日本を訪れ、日本語を学び、研究を深めた。だがいまや若手研究者は直接中国大陸に向かい、日本の研究動向への関心は高くない。ナイトウ(内藤湖南。戦前の京大教授)やモロハシ(諸橋轍次『大漢和辞典』、大修館書店)の名は時々聞こえたが。周囲を見渡せば、中国系が目に入っても日本人の姿はほとんどない。日本の存在感は確実に落ちている。われわれはもっと国際的な場に出、発信する必要がある。そんな焦りにも似た思いに突き動かされ、私は遠くアメリカから次年度の科研費を申請した。
    帰国した2003年4月から、幸いにも科研費に採択され、忙しくなった。中国の経済開発の結果、地下(墓中)に眠っていた史料が続々と発見され、今後それに基づく研究は避けられない。そう見据えた私は、「墓誌」などの石刻史料を系統的に集約し、時代の実相に迫ることを研究の柱にすえた。またそれを持続的に支え、内外に発信する拠点として、大学の支援で東アジア石刻文物研究所を設立した。そしてこれを機会に院生らを中国調査に連れ出し、国際学会で報告する機会があれば押し出し、主催する国際シンポでは運営と報告に携わらせ、外国研究者との交流の場も多く設けた。そのこともあり研究室は多くの院生が集い、実力ある若手研究者が育った。これを可能にしたのも、科研費が柔軟に活用できるようになったことに大きく負っている。
    科研費の運用にかかわって、私にはもう一つふれておくことがある。2004年4月から3年間、学振に新設された学術システム研究センターで主任研究員(人文学)として仕事をしたことである。当センターはその半年前に成立したばかりで、先任の石井溥先生(当時東京外国語大学教授)から突然電話があったのが2月のこと、てっきり何かの委員の依頼か程度に受け止め、学振にはこれまで本当にお世話になっている、できるだけ協力させていただきますと軽い気持ちで引き受けてしまった。
    だが豈に図らんや、仕事は競争的資金の運営とそのシステムづくり、日本の学術行政のサポートなど大変な内容で、責務の重さに足がすくんだのも一度や二度でない。発足間もないその当時、まず力を入れたのが科研費の審査の公正性をどう確保するかであった。当時誰の頭にもあったのは、従来の審査が学協会に委ねられ、本当に必要とする研究者に資金がまわっていない、そうした現状を打破しない限り日本の学術の発展はない、という危機感であった。そのために審査員候補の確保、審査員の選任、申請書類、審査方法、審査結果の検証などあらゆるところにメスを入れ、今日に及ぶ科研費の申請・審査・決定までの基本的体制が固められた。出産育児にかかわった女性研究者の再スタート支援、若手研究者の諸支援、名誉教授等の科研申請、特別研究員(PD・DC)の拡充、国際交流推進なども取り上げ、筋道がつけられた。
    学術システム研究センターの仕事を通じて、私はもう一つ大きな収穫を得た。文系から理系におよぶ諸分野の全国第一線の研究者と知り合ったことである。主任研究員会議であれば隔週金曜日の午前中に集まり、熱い議論を交わす。話題は縦横に及び、追いかけるだけでも大変であった。しかし日本の研究・学術に熱い思いを抱くのは、研究員だけではなかった。学振事務局の方々である。かれらは私どもの投げかけるどんな難しい問題にも、的確かつ誠実に答えを用意する一方、毎年10万件を超える複雑極まる科研費申請を見事にさばく。そうした優れた人々と仕事ができ、同志的つながりがもてた経験は、私にとって何ものにも代えがたい財産となっている。

※所属・職名は執筆時のものです。

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