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科学研究費助成事業

制度概要

私と科研費

 「私と科研費」は、科研費の広報活動の一環として、これまで科研費によって研究を進められてきた方々や現在研究を進められている方々の科研費に関する意見や期待などを掲載するため、平成21年1月に新設したものです。

 毎月1名の方に原稿を執筆していただいています。



No.24(平成23年1月発行)

「女神は最後に微笑んだ」

長崎大学・学長 片峰 茂先生
片峰 茂
長崎大学・学長

 科学研究費補助金データベースにアクセスして、自身の科研費履歴を調べてみたら、研究代表者として採択された15研究課題がリストアップされてきた。そのほとんど全てが1997年度以降に採択されたものである。

 1983年長崎大学医学部に助手のポストを得て以来、長崎大学長に図らずも就任することとなり研究キャリアに終止符を打った2008年までの25年間、基礎医学を志し東北大学の石田名香雄先生(元東北大学総長)の大学院の門を叩いた1978年に遡っても30年間の研究者人生の中で、科研費のご利益に与ったのは最後の10年間のみ、全履歴の半分にも遠く及ばないのである。

 大学院では、石田先生の学生の自主性、主体性を大事にする指導方針のもと、抗生物質の構造決定を皮切りに細菌学、免疫学、ウイルス学領域全般を股に掛け、興味の赴くままに多様な実験を楽しんだ。石田教室は総勢50名近い大教室で、外部資金も潤沢であったのであろう、研究費を心配することなどまずはない恵まれた環境であった。

 大学院修了後は、出身大学(長崎大学)に帰還し船医として雌伏の1年間を過ごした後、医学部細菌学教室に助手として採用された。ここから語るも涙の耐乏生活が始まる。一例を挙げよう。細胞培養用のシャーレやピペットマン(小容量の溶液を測り取るための器具)のチップなどのプラスチック製消耗品ですらも、使用後に再生し何度も再使用したものである。とにかく教室には基盤的経費以外の余分な研究費がないのである。自分自身も、手を変え品を変え、当時の奨励研究や一般研究を中心に毎年科研費を申請したが、採択の朗報が届くことはなかった。とくに、“EBウイルスの宿主域に関する従来の常識に修正を加える”研究成果をNature誌に掲載した1985年度や、米国留学先でクローニングに成功した新規がん遺伝子を引っ提げて帰国した1989年度には、とりわけ力のこもった申請書を仕上げ挑戦したが、やはり駄目であった。結局、科研費挑戦10連敗(米国留学3年間をはさむ)という不名誉な記録を達成することになり、最後はさすがに自らに愛想がつきた。“自分と科研費はそもそも相性が悪いのだ”と自らを慰めるしかなかった。

 この間、漫然としていたわけではない。いろいろと考えた。そして、自分は四十路に至っても学界から未だひとかどの研究者として認められていないのだという結論に達した。大学院時代からの習性が抜けず、大学教員として自立して後も、EBウイルス、HTLV-I(ATLウイルス)、HIV、がん遺伝子など、ウイルス学の領域で興味の赴くまま様々なテーマと取り組んだ。数は多くないものの、各テーマでそれなりにインパクトのある論文を書いたつもりであったが、他人からみると“片峰の専門は何かわからん”ということであったのだと考えた。そして、一つのテーマに腰をすえる決心をし、その後のライフワークとして選んだのが、羊のスクレイピーやヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病など一連の感染性神経変性疾患の感染因子:プリオンであった。

 米国のPrusiner博士が、核酸を有さない単一のタンパク質(異常プリオンたんぱく質:正常タンパク質の構造異性体)のみで構成される病原体:プリオンの概念(仮説)を提唱したのは1982 年である。この仮説を検証しプリオン病原体の本体を解明することが、自分のライフワークとするに十分な価値があると考えた。そして、1990年頃より本格的な研究を開始した。

 風が吹いたのは1996年である。(財)癌研究所の野田哲生博士と共同で開発した正常プリオンたんぱく質を欠損するノックアウト・マウスに小脳神経変性が出現することを見出し、この年の4月にNature誌に論文を掲載した。折も折り、その直前に、英国で大流行したウシのプリオン病BSEが食を介してヒトに感染することが明らかにされていたのである。食の安全を脅かす新しい感染症の出現は、社会をある種のパニックに陥れ、その中で我々の研究も、正常プリオンたんぱく質の機能消失がプリオン病病態の一部であることを示す発見として大きくメディアに取り上げられた。果たして、翌年度からは一転して科研費申請は連戦連勝となり、以後10年以上にわたって途切れなく支援し続けていただいた。他の外部資金の支援もあいまって、一気に研究の幅と規模を拡大することができた。その中で、いくつかの大きな成果を世に出すこともできた。

 こうして振り返ると、自分にとっての科研費は、長年恋焦がれた末に、最後にやっと微笑んでくれた女神のような存在であった。ふられ続けた十数年は、悩みながらも様々の試行錯誤を繰り返し、自身の研究者としての在り様を固めるための貴重な時間であったような気がする。科研費によって鍛えてもらったのである。

 2007年4月から(独)日本学術振興会学術システム研究センターに主任研究員として採用された。このセンターの主要な役割の一つは、科研費の選考・配分システムの構築にあるが、主任研究員に応募した理由の一つが、科研費の仕組みの中枢に在って過去の自身の10連敗を検証してみたいという極めて個人的なものであった。中に入って、科研費が多大なエネルギーを使って選考の公平・公正に万全を期していることに改めて感銘を受けた。毎年10万にも及ぶ申請書全てを4名ないし6名の専門家が査読し、評点をつける。査読者にはコメントを付すことが義務付けられる上に、査読者による評点の偏りを補正するための統計処理まで編み出されている。その後、第2段審査(高額の研究種目は、ヒアリングを含む)により最終選考がなされる。これほど公正で、これほど大規模の研究費助成システムは世界にも類例がないのではないか。したがって、採択のためには研究領域の多数派に研究の意義や実現可能性を納得させるだけの説明責任が要求される。なるほど、過去に不採択の憂き目にあい続けた自身の申請書の多くは、まだまだ未熟で多数派を肯かせるだけの説得力に欠けていたのだと、とりあえず納得した。

※所属・職名は執筆時のものです。

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