日独先端科学シンポジウム

実施報告

   
 

第5回日独先端科学(JGFoS)シンポジウム実施報告


Planning Group Member 日本側主査
東京大学・先端科学技術研究センター・教授 菅裕明


 JGFoSを終えて残ったもの

 2003年は、私は14年過ごしたアメリカ研究生活から日本へと研究生活を移した年だった。その年、長年の友人である東北大学多元物質科学研究所教授(当時大阪大学助教授)の和田健彦先生から「JSPSが企画してドイツと日本で異分野の若手研究者を集めて会議をするので講演者として出席してほしい」と打診があった。それ以降、私は第1回目の講演者としてJGFoSに参加、続く日本で行われた第2回目は次期PGM会議に出席、3~4回目はPGMとしてJGFoSに、さらに5回目には主査・PGMとして参加する機会を頂いた。私は、2008年の第5回目をもってその責務を終え、JGFoSから引退(?)した訳だが、私は解放の喜びを感じると同時に寂しさを感じている。5年の歳月で、JGFoSで通常私が参加する学会で会うことのないドイツ・日本の異分野の科学者たちに会うことができたことは、私にとってはかけがいのないことであった。
 FoS会議は、異分野のトップランナーの科学者を集め、クロスフィールドで議論することで、異分野の相互理解を深めるばかりでなく、その専門分野を他分野の科学者にも説明できる能力を若手研究者に養ってもらうことを目的に毎年開催される。アメリカ在住の研究者のみが集うNational Academy of Sciences in USAのFoSが国内から海外へと発展して開始された会議だ。私はアメリカ在住時代にこの会議に招かれたことがあった。それ故、このFoS自体に参加する研究者に何が期待されているか、私自身はある程度の理解があったと思う。しかし、USA国内のFoSでは、英語を母国語とするアメリカ人が議論の中心的役割を果たしていた記憶が、私には鮮明に残っていた。したがって、はたして日本人研究者が、アメリカ人がするような議論を異分野の研究者が発表するトピックスについてどこまで議論できるのだろうと若干不安に思ったのだった。唯一の救いは、私が参加するFoSの協賛国が母国語を英語としないドイツであったことだった。
 マインツで行われた第1回目のJGFoSに講演者として参加した私は、この不安はそれほど大きな問題にはならないと感じた。講演者は、できる限り専門用語を使わず噛み砕いた内容で話し、且つフロンティアサイエンスの名にふさわしい講演を英語でクリアに発表していた。また、講演に対する質問もドイツ側日本側からほぼ同等に出ていたし、議論もある程度かみ合っていた。これは英語を母国語とするかしないかではなく、参加者のレベルが高かったのだと私は感じた。しかし、課題も明らかにあった。まず、各研究領域のトピックスが決まっていても、4人の講演者が個々に異なるアプローチで講演をするため、領域によってはドイツ・日本講演者間の講演内容の繋がりに欠け、異分野の研究者に全体像がつかみ難い場合もあった。また、本来なら日本・ドイツ側の出席者は、全日程に出席すべき会議であったはずだが、ドイツ側の講演者・参加者に一部そうしない人達もみられた。(これは、ドイツ側だけに言えることでなく、日本側でも日本で会議が開かれる時にそういった人達が若干いたのは事実だ。)明らかに主催者側とPGM・参加者との情報共有不足、FoS会議のミッションの伝達あるいは設定がクリアでなかったのだ。
 第3回目から東北大学の掛川武准教授が日本側の主査を務め、新たなPGMが構成された。また、JSPSとフンボルト財団スタッフの連携も成熟してきた。特に第4回目にはJGFoSの構成に大きな転換を試みた。第1~3回のJGFoSでは、各領域のPGMが10分程度の総評を話し、日本ドイツ側各2人の講演者が各20分程度の講演をする形式であった。このスタイルの問題点は、各講演者もイントロを入れるため内容に若干の重複が生まれることがあること、もう1点は講演時間が長く十分な質疑応答の時間が取れず、消化不良になることがあった。そこで第4回目から、各領域から3人の講演者を選定することに変更した。まず、総評を話す講演者1人をドイツあるいは日本側から選び、その講演者には領域トピックスのオーバービューと短い自身の研究のフロンティアを話してもらう。その後、ドイツ側と日本側から各1名の講演者が自身の研究のフロンティアを講演してもらう。このスタイルに変更することで、各講演者の時間も十分取れ、且つ質疑の時間も十分取れるようになった。こういった試行錯誤から、現在のJGFoS独特の会議スタイルが確立された。
 第5回からは、さらに領域の設定自体にも一部の領域で若干見直しも行われ、より幅広い分野のトピックス設定ができるようにもなった。私は第5回に主査を依頼され引き受けたのだが、第4回のPGM会議と第5回の事前発表会で私なりリーダーシップを発揮しようと心がけた。まずは、PGM会議では議論の時間を確保するため、各領域のPGMがトピックスを説明する時間を制限し、説明の簡潔さを求めた。PGM会議に出席した私自身の経験では、各分野のPGMによるトピックスの説明が詳細過ぎて異分野の人にわかり辛くなり、結果的にむやみに時間が経過して結局異分野PGM間での議論が不足してしまうことがあった。なぜ重要なトピックスなのか、短時間で異分野PGMに伝えることで、議論の時間をつくり、理解を深めようとしたかったのだ。また、日本人だけで集まる事前PGM会議をJGFoS開始直前にもつことで、JGFoS開催中にできるだけドイツ側PGMとコミュニケーションを取り合って欲しいとも伝えた。さらに、JGFoS開催の2ヶ月前に行われる事前検討会では、参加者には私自身が記述した依頼文を送付し、また検討会では、各発表者に対し私自身がかなり突っ込んだコメントを発した。それに触発され、各PGMも多くの素晴らしいコメントを出してくれた。そうすることで、この会議のミッションを講演者、参加者により明確にしたかったのだ。
 以上がJGFoSに5年間関わり引退する古参がみたJGFoSの進化史である。このように、運営スタイルを進化させながらJGFoSを開催できたのは、両国のスタッフの多大な努力の賜物である。私は毎年このJGFoSに参加するたびに、様々なことをJSPSのスタッフにはお願いした(無理なことを申して、この場を借りお詫びしたい)。しかし、スタッフの皆さんはそれを少しずつかなえて下さるように努力して下さった。特に、科学者同士のコミュニケーションの時間を考えて頂いたことに、私は心から感謝している。それ故か、この2年のJGFoSは以前よりもいっそう活発な議論が展開され、且つ和やかな雰囲気に包まれていたと思う。
 そして、何よりもJGFoSを支えているのは、参加者である若手科学者だ。科学者にとって会議・学会に参加することは、自分の領域研究の先端情報をいち早く知り、同業研究者とのネットワークをつくることだ。しかし、このJGFoSはそういったいわゆる学会活動で得る利点はほとんどない。つまりこの会議への参加は極めてボランティア的なのだ。しかし、この会議では通常の学会では得られない多くのことが得られる可能性を秘めている。その可能性を引き出してくれたのもまた、参加者の科学者たちだ。私は、第5回のJGFoSの最後で主査として締め挨拶をした際、この会議の成功を次のように讃えた。「通常の学会では様々なしがらみからできない質問も議論もこの会議であれば聞けた」「また、この会議は次回いつどこで再会するかわからない異分野の研究者たちにも会える機会を与えてくれた」「そして様々な分野のフロンティアを垣間みる機会を我々は得た」と。これらの機会は、私にとって、そして全ての参加者にとっても「Intellectually stimulated」だったと思う。私がJGFoSを去る上で「寂しい」と感じる理由なのだ。参加者が共有したことは、自分の研究を異分野の科学者に話す言葉をもつことの重要性だ。我々は、特定科学分野の専門家であるが、「科学者」としての立場を忘れてはならない。これこそ、JGFoSが我々参加者に与えてくれた最大の知だろう。
 私は、JSPSが今後も若手研究者にこういった機会を提供くれることを願っている。それ故にFoS会議の今後の益々の発展を期待したいのだ。




菅主査
菅主査


セッションでのディスカッション
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ポスターセッション
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