パン屑リストを開始します ホーム >> 事業案内 >> 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業 >> 活動報告・ワークショップ >> 第5領域横断フォーラム<ミュージアム> パン屑リストを終わります
main content
本編を開始します
人文・社会科学振興プロジェクト研究事業

インフォメーション
活動報告

  

第5領域横断フォーラム<ミュージアム>

ミュージアムに未来はあるか 〜その可能性と課題

開催趣旨(木下直之 東京大学)

開催趣旨(木下直之 東京大学)_photo

 私どもが所属している研究領域Ⅴでは、「伝統と越境」、「日本の文化政策とミュージアムの未来」、そして「文学・芸術の社会的媒体機能」の三つの研究グループが活動しています。ただ、これまでに、この三つのグループが横につながる機会がほとんどありませんでしたので、今年度はその機会を作ろうということで、今日のこのフォーラムの開催となりました。
 今回は、第2グループが中心になりまして「ミュージアムに未来はあるか〜その可能性と課題」をタイトルに、4人の方に報告いただき、それぞれにディスカッションをしていきたいと思います。
 大きく言えば、このプロジェクトは芸術表現というものをテーマに、さまざまな観点から研究を進めているといっていいと思いますが、その中でも2つめのグループは、表現というよりも表現の場をいかに作り上げていくのか、あるいは、いかに抑制していくのかという芸術表現をめぐる場の問題を扱っているといってもよいかと思います。
 「文化政策」と「ミュージアム」という二つの言葉を掲げていますけれども、これはレベルのかなり違う言葉です。「文化政策」のほうが大きいという言い方ができるかもしれません。一方に、あえて「ミュージアム」を掲げたのは、やはりこの「ミュージアム」というものが、いろいろな可能性や危険性をはらんでいて、その両者を見極めながらこれを使っていかなければならないと考えるからです。今日は、そのミュージアムを切り口に、芸術表現の問題を考えていきたいと思います。
 そもそも研究グループの名前は「ミュージアムの未来」と、あたかもそこに未来があるかのごとくつけているのですが、本当にそうなのか。運営や経営を含め、日本のミュージアムは今、大きな壁にぶつかっていると思いますが、それだけではなく、そもそもミュージアムというものがどこまで利用可能なのか。あるいは、どのような可能性を秘めているのかということも含めて考える場にしていただきたいと思います。
 みなさんのお手元に小泉首相の日帰りの外交日程を配付しました。首相が外国へ日帰り出張するということ自体、珍しいことです。中国と韓国のそれぞれわずか半日しかない滞在先で、さてどこを訪れたか。実はミュージアムを訪問することに費やしているのです。そして、何がしかのコメントを述べています。ミュージアムというものは、それほど政治的にも利用価値があるわけです。こうした意味でも、ミュージアムには可能性があるという言い方ができるのではないかと思います。
 今日は、こうした政治性の問題に必ずしも議論が収斂していくとは思いませんが、ミュージアムを取り巻く問題を、この場で活発に議論をしていただきたいと思っています。


「美術館とナショナルなるもの」田中 正之(国立西洋美術館)

「美術館とナショナルなるもの」田中 正之(国立西洋美術館)_photo

 国立の博物館・美術館は、2001年に独立行政法人され、最初の5年間の中期計画が今年の3月で終わり、4月からは次の第2期中期計画の期間に入りました。第1期中期計画の最終年に当たる昨年度には、法人の在り方が再び検討され、法人の存続それ自体や、美術館や博物館、文化財研究所の再編・統合の問題などが議論されました。総務省を中心としたこれらの議論に加えて、内閣府の規制改革・民間開放推進会議において市場化テストの導入が検討されるといった具合で、まさにここ数年間、国立の美術館・博物館は行政改革の渦中にあり、政治問題化され、運営形態が論じられているという状況にあります。
 規制改革・民間開放推進会議や衆議院の行政改革特別委員会、さらには新聞等のメディアでさまざまに展開された議論を見ますと、単に民間委託や経営の効率化といった問題だけではなく、国立の博物館、美術館が担うべき使命とは何か、という問題も論じられていることがわかります。そして、国立の博物館、美術館には、日本民族の誇りとアイデンティティを形成するという使命があることが指摘されています。
 確かに、19世紀以降欧米で作り上げられてきた国立の博物館、美術館は、このようなナショナル・アイデンティティの形成に貢献することを求められてきました。しかし、他方ではまた、この数十年の間、美術館、博物館はさまざまな学問的批判や、あるいは学問の一両域であるミュージアムスタディーズによって、その国民国家の一機関的なありようを批判されてきたのも事実です。美術や文化の歴史を民族の歴史という大きな物語として、直線的な目的論的発展史としている語り方は、歴史学における複数の歴史への意識や、直線的ではない展開や発展史批判という観点からも批判されていますし、伝統なるものが虚構であることも、ホブスボーム以降さまざまに議論されています。
 現在の美術館は、一つのクライテイアによって構築されたにすぎない統一性と一貫性のある物語を語ることよりも、むしろ矛盾や差異にこそ注目することを促され、あるいは実体論的に文化的アイデンティティを確認し、民族なり国民国家なりといった特定の集団に人々が自らをアイデンティファイするような場所としてよりも、よりインタラクティブに、観覧者一人一人が発展的に展示物との関係性を構築していくような場となることが求められています。
 このような批判を受けたうえで、現在、美術館、博物館の在り方が模索されているわけですが、そのような状況であるはずの現在において、19世紀的なナショナル・アイデンティティを付与する場として国立の博物館、美術館が規定されていくのだとすれば、その公的な使命と実際の運営との間に大きな齟齬と矛盾をはらみながら活動を続けていくような状況になるのではないかと思われます。新たな博物館や美術館の在り方を模索し、試行錯誤を行うには、国立の機関ほど困難を強いられるようになるのではないかと思われ、それが国立の博物館や美術館をかえって人々から遠ざけるようになるのではないかという危惧を抱かざるをえません。どのような国立の、ナショナルな機関としての博物館、美術館の新しい使命、ミッションを規定すればいいのか。そういった問題が、なかなか明快な回答を見いだせないままに、今、我々に重くのしかかっているように感じられます。


「芸能の伝承と映像記録〜ミュージアムが映す伝統」福岡 正太(国立民族学博物館)

「芸能の伝承と映像記録〜ミュージアムが映す伝統」福岡 正太(国立民族学博物館)_photo

 伝統芸能の伝承の危機が叫ばれている現在、伝統芸能を映像で記録しようということがさまざまなところで行われています。しかし、実際に映像を作ったあとには、その映像をどう活用するのかという大きな課題が残るのではないかと、私は考えております。
 私は、2000年に、国立民族学博物館の同僚の寺田吉孝さんと一緒に、カンボジアのシエムリアップで、大型影絵芝居スエバク・トムの映像記録をしてまいりました。1990年代に入り、カンボジアの和平が実り、スバエク・トムの復興も軌道にのっているかに見えましたが、当時、一座の長老ティー・チアンさんは83歳となり、体調も思わしくない状況でした。昔どおりの7夜連続の上演を行うという彼の提案を受けて、私たちは撮影を行いました。
 残念ながら、その年の夏、ティー・チアンさんは亡くなりました。私たちは「間に合った」ということもできますが、同時に記録さえあれば演者はいなくなってもいいのかという根本的な疑問もわいてきます。映像というのはあくまでも上演の記録であり、芸能を伝えていくこととは別のことです。もちろん、映像記録は貴重なものですが、それを芸能の伝承や教育、研究といった広い意味での創造的な活動の中に位置づけ、活用することができて初めて、記録した意味が出てくるのではないでしょうか。
 このように考えたときに、ミュージアムは映像を活用する拠点として、大きな可能性を持っていると思います。ミュージアムは文化的な資源を集積するだけではなくて、たくさんの人々が集まる場でもあります。そして、歴史や伝統といったものに関する認識を醸成し、知識を広めていく役割も果たしています。田中さんが指摘されたように、そこに政治的な意図が働く危険性をはらんでいるのも事実ですが、私自身はこれをミュージアムの可能性として広げていくことができればと考えています。
 そのとき、ミュージアムは一つの映像の内容を絶対化せずに相対化する、あるいは歴史化することが大事だろうと思います。映像は、特定の時、場所、文脈における上演の記録にすぎません。記録されているものは芸能の唯一あるべき姿ではないわけです。異なる時や場、あるいは異なる演者による芸能の記録をもつことが望ましいでしょう。さらに、芸能の練習や準備、関係者のインタビュー、芸能を支える信仰や社会組織など多角的に記録することも必要です。そして、公開に際しても、啓蒙普及を目的とした比較的短い映像番組から、専門的にテーマを深めた映像作品など、多角的に映像や情報を提供すべきだと思います。
 ティー・チアンさんが、我々の映像記録に協力してくれたということは、彼自身が映像中に自分の芸を残し、それをいつか若い人たちにも見てもらいたいという思いがあったのでしょう。この映像を、大きく変わっていく社会の中で、伝統芸能を位置づけ直していく活動のきっかけとすることが、その思いに応えることになるのではないでしょうか。残念なことに、現在のところシエムリアップに、この映像記録をすぐに受け入れてくれそうなミュージアムはないようです。小さくてもよいからミュージアムのもとになるような拠点がシエムリアップ作られ、そこにこの映像を返していくことをぜひ実現したいと考えています。


コメント 川口 幸也(国立民族学博物館)

コメント 川口 幸也(国立民族学博物館)_photo

 私はおしなべてミュージアムである以上、政治的でないものはないと思っています。それはなぜかというと、displayという営みは、人が何らかの意図に基づいて物を並べることであり、そこには必ず思惑や恣意が潜んでいると思うからです。したがって、あるミュージアムが、「我々は政治的ではない」と標榜することのほうが、むしろ一部の人たちに対しては凶暴な暴力性をむき出しにしてしまいかねないという意味で、危険な存在になるのではないかと思っています。
 私は一昨年、昨年とベトナム、タイの、国立だけではなく地域のさまざまな博物館、美術館を見てきたわけですが、どの国でも英語で「ミュージアム」という同じ言葉を使っているにもかかわらず、そのありようというのは、それぞれのローカルな歴史、文化、風土に応じて非常に多様なのです。たとえばタイへ行きますと、ある地域博物館というのは事実上のお寺であり、あるときは市場やレストランであり、またあるときにはお祭りの広場なのです。このように、「ミュージアム」という名前は同じでシステムもほぼ同じなのですが、それぞれが持っている社会的な機能、役割というのはきわめて多様です。そこから振り返るに、我われ日本人は、日本のミュージアムが「ミュージアム」という同じ名前を持っているから欧米のそれらと同じだと思っているかもしれませんが、欧米から見たら、かなり日本的なものだと映るのではないかと思います。私は、そのことは必ずしもネガティブなことではなくてむしろポジティブなことだと思っています。さらにいうと、たぶんヨーロッパの中でもさまざまなミュージアムがあって、それらはおのおののローカルな特色を背後にしっかりと背負い込んでいるのではないかと思っています。
 ミュージアムの機能というのはまことに多様で、それこそ地域や使い方によっていくらでもあるわけで、そうした新しい、旧来の在り方にとらわれないようなミュージアムの活用のしかたというのは、今後ますます重要になってくるのではないかと思います。
 21世紀に求められているのは、これまでのミュージアムとは違う何かではないかと私は思っています。違う何かといいましても、どこがどう違うのか、私もはっきりは分かっていませんが、おそらく単に啓蒙的であるだけではなく、脱啓蒙的な側面を視野に収めたありようというのが、これから求められてくるのではないかと考えています。
 啓蒙の装置でありつづけることによって、ミュージアムは相変わらずどこかナショナリスティックなにおいを残していくとは思うのですが、しかし一方、脱啓蒙的な機能を志向することによって、そうした啓蒙的な側面、いいかえますとナショナリスティックなものを相対化していくことができる。すなわち、ともすれば偏狭に陥りがちであるナショナリズムを常に健全化していく自浄化作用を、脱啓蒙的な役割を担うことによって果たしていくことができるのではないかと思います。
 そういう意味で、このフォーラムなどを契機として、21世紀の多様なミュージアムのあり方に関する議論を、今後幅広く起こしていければと願っている次第です。


「コミュニケーションの場としてのミュージアムとそのデザイン」要 真理子(大阪大学)

「コミュニケーションの場としてのミュージアムとそのデザイン」要 真理子(大阪大学)_photo

 近代における芸術作品の鑑賞は、鑑賞者が制作者のメッセージを読み取るコミュニケーションとして理解され、展示の場はニュートラルなものであるはずでした。しかし、1984年の「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展に対する批判的言説は、展示を特定のイデオロギーを内包した行為であるとする自覚を促し、それ以降展示それ自体が問題視されるようになりました。1990年代前半になると、鑑賞者には作品を包括する展示の文脈を読むことが求められるようになりました。こうした展示の文脈を意識する美術館ならびに鑑賞者の姿勢は、1990年代後半に「能動的に見る」、あるいは「主体的に見る」という言い回しを生むこととなります。
 1990年代の前半と後半で、いわゆる近代的な展示のイデオロギーへの反省から、一層限定的に鑑賞者の「能動的に見る」体験へと関心が移っていった理由として、1995年にアレナスが唱道する参加者を巻き込んだ対話型鑑賞法が日本で紹介されたことが挙げられます。これは、複数の人々とともに作品を鑑賞し、その見方について講師がファシリテーターとなって会話を導いていくというものです。こうした、展示の中に美術館が主体として介入し、ワークショップを主催するという在り方は、現場の試行錯誤とともに日本においても実践されるようになりました。というのも、ワークショップ性を展示構成に織り込むことで、美術にあまり親しんでいない鑑賞者に、作品を身近に感じてもらい、この作品を思いがけない文脈の中でとらえ直してもらえるようなきっかけを提供できると思われたからでしょう。ここにおいて、ワークショップ性というのは、1.日常ではできないこと、意外性、思いがけなさ、2.ある程度の条件や規則の中での自由さ、3.遊びと作品制作に共通する創造性、4.プロセス重視の共同作業、5.協調性をはぐくむと同時に他者に左右されやすい性質を指しています。但し、5の性質に関してはその対処法が検討されねばならないでしょう。
 かくして、企画者と鑑賞者の協慟は、双方向的、参加型、あるいはインタラクティヴといった言葉で形容される性質と同義と考えられ、こうした協慟が成立するために必要なのが、展示を作る側が設定するきっかけ(=仕掛け、演出)であるというのです。
 注意すべきなのは、ワークショップ性を取り入れつつも、美術館が展示に文脈を再び導入し、特定の仕掛けを通して鑑賞者の「能動的に見る」を制限してしまっていることだと思います。そして、作品の感性的な質を自らの感受性を深めつつ「能動的に見る」ということがなおざりにされてしまう危険性が生まれているようにも思えます。
 美術館展示にワークショップ性を取り入れることで生じる2つの危険性、まずワークショップ性が再び展示に特定の文脈を導入してしまう危険性に対しては、企画者側が意図する文脈以前に、まさに作品と作品の織り成す文脈を芸術の初学者を含むさまざまな観覧者に分かりやすいように配置する試み、次に、展示の文脈ばかりが強調されて、鑑賞者の芸術作品に対する感受性の深まりがなおざりにされてしまう危険性に対しては、展示を鑑賞する準備体操としてのワークショップを行い、感覚と思考を結びつけようという試みが、それぞれの対処法として実際に行われています。そのとき、感受性の深まりが、そのまま鑑賞における感受性の深まりと連動するのかどうかということについては未だ議論の余地があるでしょう。今後いっそう、美術館の現場と美学や芸術を専門とする研究者が、連携して実践研究を進めていくべきではないかと考えています。


コメント 五十殿 利治(筑波大学)

コメント 五十殿 利治(筑波大学)_photo

 今日のお話を聞いて、私たちのグループでやっていることと非常に近い発表でしたので、私としては大変勉強になり、むしろこういうかたたちと積極的に協同するほうが、私たちのグループの研究活動がさらに刺激を受けて展開していくのではないかと、まず思いました。私個人はグループの研究課題の一つに鑑賞行動というものを挙げていますが、今回の二つの発表を通じて、やはりいちばん重要なテーマは鑑賞行動というところに来るのではないか、鑑賞者ということだと思います。
 第1部のほうはどちらかというとハードのお話が多かったと思いますが、第2部のほうはソフト、今美術館があるということを前提として、そこをどうやって活用していくかということではないかと思います。どちらかというとナショナルというほうでみんな立ち止まってしまって、次どうあるべきか、というところで、在り方をめぐって立ちすくんでいる状況から比べると、こちらはもっと活動的で、あるものは利用しなければいけない。まして、それは官でも民でもないというような、ある種極めて現実的な方向が模索されておりまして、大変示唆的ではないかと思います。私たちはいずれにせよ活用ということを考えていますので、我々にとっては大変面白いことだったと思います。
 最初の発表は、とにかくワークショップというものを、むしろ美術館の中に導入していくのだという考え方でした。いろいろなレベルでそれが展開していくのだということで、参加されているかたも非常に多様なかたで、私たちのグループもたくさんの分野の人が集まっているわけですが、こちらの多層な、あるいは多角的な研究の動向がつかめたと思います。
 要さんの発表も大変面白く聞かせていただきました。二つの危険性ということは確かにありまして、第1部のほうでも展示の政治性ということを川口さんがおっしゃっていましたが、パブリックな場というものに文脈がないはずがなく、それを政治性と呼ぶならば、すべからく政治性を持ってしまう。そういうことから考えれば、全く無色な何の意図もない展示もワークショップも成り立たないのではないかと思います。では、そのやる側が、全く予想もしないワークショップというものを最初から意図できるのか。本来そういうことはほとんど考えられないわけで、先ほどのワークショップの進め方の中に、共に学んでいくものだということがありましたけれども、それにしても全く予想外のことを織り込んで、そういう一つの計画というものをやることができるのかということを、やはり考えてしまいます。そういう意味で、特定の文脈の導入の危険性というのが一方で間違いなくあるわけですが、しかし、そうなれば、やはりハードが持っている原罪というのも一方で考えてしまうわけです。
 作品はそんなに簡単に縦にしたり横にしたりできるものではないし、ある軸の中であるわけです。ですから、そういうものの位置づけをおのずと制限しているものですから、それをある無限のものに転換しようとすること自身が無理なのではないかと思います。そういう意味では、どんなワークショップを計画しても、そういう文脈を導入することは必然的なものだと。ただ、どうやってそのような限定を外す仕掛け、あるいはそれをある種自己否定できるようなものをその中に含んでいくのかと考えます。


感想まとめ 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程・前期課程参加者一同

感想まとめ 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程・前期課程参加者一同_photo1 感想まとめ 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程・前期課程参加者一同_photo2

  • 第一部のセッションで提起された文化の集積施設としてのミュージアムないしは脱啓蒙化していくミュージアム、そして第二部で提起されたワークショップが有効に展開される教育の場としてのミュージアム、と多様なミュージアム像が示されましたが、個別の議論を発展させ、それぞれの像が互いにどのように切り結ぶのか、相互間においての立場のすり合わせができるような積極的な発言(質問)を試みて、(私たち大学院生の理解を深める上でも)さらに有意義なものとしたかったと思います。
  • それぞれに提示されたケースはたいへん興味深く、その指し示す方向性に関する検討を、自分たちの立場においても、今後、積極的に行なっていきたいと思いました。ただ、今回のフォーラムにおいて提起された新たな方向性の多くが、ミュージアムの外部、つまり文化の「現場」との繋がりを重視するものであったり、これまで希薄であったといえる専門教育学的な立場をミュージアムに導入するものであったりと、主に館内活動を中心としてきた従来のわが国のミュージアムの立場から一線を画したところで模索されているものであるように思いました。とりわけ美術館に関しては運営上の問題が続出している経緯ないし現状があり、それらに即するかたちであらためて、今回提示された新たな方向性を検討していきたいと思います。
  • 海外の具体的事例に即した報告、あるいは議論がなされてもよいのではないかと感じました。ミュージアムというシステムが西欧に発するものであることにはじまり、コレクションについても海外作品なくしてはなかなか成立しがたいことからも、わが国のミュージアムをとりまく状況には、「日本的なもの」と「非日本的なもの」とからなる二重性が様々な問題となって現われ出ているように思われます。つまり、現況のはらむ問題を考証し、今後の方向性を検討する上で、ミュージアムというシステムそのものにまつわる事柄と、それが移入され、組織されてきた日本という環境に起因する事柄とを分けて考察する必要があるように思います。

 大学院生という立場上、様々な「現場」から距離を置いた位置に立つことがほとんどですが、そうしたニュートラルな立ち位置を活かして、上記のような考察を可能にする多様な検討材料の調査収集や有効な比較軸の確立などの作業を、今後もなおいっそう地道に行なっていきたいと思います。