お問い合わせ先

独立行政法人 日本学術振興会
研究事業部 研究助成企画課、研究助成第一課、研究助成第二課
〒102-0083
東京都千代田区麹町5-3-1
詳細はこちら

科学研究費助成事業

研究概要・成果

私と科研費

「私と科研費」は、科研費の広報活動の一環として、これまで科研費によって研究を進められてきた方々や現在研究を進められている方々の科研費に関する意見や期待などを掲載するため、平成21年1月に新設したものです

毎月1名の方に原稿を執筆していただいています。



No.70(平成26年11月発行)

「科研費と研究支援」

日比谷 潤子
日比谷 潤子
国際基督教大学・学長

私は1983年9月から約4年間、自由の鐘や米国独立宣言(あるいは、映画「ロッキー」でシルヴェスター・スタローンが駆け上がる階段が正面にある美術館)で知られるフィラデルフィア市に住み、ペンシルベニア大学大学院言語学科の博士課程で学んだ。この間一貫して指導を受けたWilliam Labov教授は、National Science Foundationから次々と助成金を獲得していた。私自身は、3年間は奨学金を受給し、残りの1年はティーチングアシスタントに採用されたので、直接的な恩恵は受けなかったが、同時期に在籍した友人の多くは、採択された研究プロジェクトのリサーチアシスタントとして、生活費を得ると同時に、自らの博士論文にもつながるデータ収集/分析に従事していた。
   1986年の晩秋、慶應義塾大学国際センターの公募に応じたところ、まことに幸いなことに採用が決まったため、当初の予定より少し早く、1987年春に帰国した。その年の夏休みに再渡米して学位論文をほぼ書き上げ、三田に戻った頃のことであった。秋の訪れが感じられるようになったキャンパスで、ばったり会った大津由紀雄言語文化研究所教授(当時、現在は明海大学副学長)から、「科研費の申請書類、取りに行った?」と声をかけられた。ようやく論文完成の目処は立ったものの、教員1年生として日々の授業や大学業務で頭がいっぱいだった私の返答は、「何ですか、それ?」かくも間抜けな反応は、博士課程在籍中から特別研究員-DCの申請等で日本学術振興会の存在を強く意識しているに違いない今の若手研究者なら、決してしないであろう。木陰での立ち話で、今後の研究の進展には科研費獲得が不可欠であると言われ、「今、この足で研究助成室に行ってね」とにっこり。「最初は、37歳までしか申請できない奨励研究(A)がお勧め。この研究種目だと、終了後に冊子の報告書もいらないし・・・」との極めて現実的な助言もあった。
   その場で回れ右して申請書類を取りに行った私は、公募要領とにらめっこしながら研究調書を完成させ、締め切り間際の提出にこぎつけたが、そもそも「初回は練習」と思っていたため、年が明ける頃には、出したことすら忘れ果てていた。したがって、春に「当たり」(このような表現は不謹慎と受け取られるだろうが、文字どおり宝くじが当たったという心境だった)の連絡を受け取った時は、本当にびっくりした。その後、連続して5年間にわたり、同じ研究種目で採択されることになる。この段階での継続的な助成により、日本に戻ってきて比較的短い期間で自然談話資料収集に不可欠な録音機材等を揃え、研究者としての地歩を固めることができた。これには、心から感謝している。
   ところが続く6年目は、申請はしたが不採択となった。上述のとおり、年齢制限のある研究種目だったので(まだ37歳には数年あったが)、私はこの結果を「そろそろ若手研究者は卒業するように」というメッセージと受け止め、別の研究種目で申請してみることにした。しかしながら、複数回にわたって挑戦したものの、ハードルはなかなか高かった。ちょうどこの時期に、客員准教授としてダートマス大学で2度目の米国生活を送ることになったという事情もあり、ある年は申請そのものを見合わせた。
   このようにしばらく科研費から遠ざかっていたが、1997年度に転機が訪れた。この年から5年間、桐谷滋東京大学教授(当時)を研究代表者とする重点領域研究(後に特定領域研究(A))「心の発達:認知的成長の機構」の言語発達班に入れていただくことになったのである。それまで私はもっぱら個人で研究していたが、このプロジェクトに参加したことによって共同研究の意義を深く認識するに至り、その後は研究代表者として、他大学に所属する研究分担者とともに基盤研究に従事してきた。この5年間の経験は、とりわけプロジェクト運営の諸局面において、大いに役立った。あの重点領域研究がなければ、これらの研究を推進するにあたって、さまざまな支障を来したものと思われる。
   ペンシルベニア大学での勉学を始めた頃、外部資金を獲得して研究プロジェクトを率いる自らの姿をイメージすることは、ほとんどなかった。ましてや30年後に学長として、大学全体の科研費採択率向上を目指すことになるなどとは想像もしなかったが、「その場で回れ右」に始まる「私と科研費」の来し方を振り返ると、とりわけ学位取得直後の若手研究者の申請を奨励し、組織をあげて十分に支援することの重要性を痛感する。

※所属・職名は執筆時のものです。

これまでに掲載された記事は下記からご覧いただけます。
過去の掲載記事はこちら。