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科学研究費助成事業

研究概要・成果

私と科研費

 「私と科研費」は、科研費の広報活動の一環として、これまで科研費によって研究を進められてきた方々や現在研究を進められている方々の科研費に関する意見や期待などを掲載するため、平成21年1月に新設したものです

 毎月1名の方に原稿を執筆していただいています。



No.57(平成25年10月発行)

「私と科研費の淡いご縁」

お茶の水女子大学・大学院人間文化創成科学研究科・教授 岸本美緒先生
岸本 美緒
お茶の水女子大学・大学院人間文化創成科学研究科・教授

 私は1952年生まれであるが、私と同年代以上の人文系の研究者のなかには、近年まで科研費とあまり縁がなく過ごしてきたという人もかなり多いのではないかと思う。私もその一人である。はからずも2009年度から2011年度まで日本学術振興会学術システム研究センターの主任研究員として勤務する機会があったため、日本の学術全般における科研費の重要性について、一般論としては十分に理解しているつもりである。しかし、「私と科研費」という題で個人的経験談を書くとなると、皆さまのお役に立つようなことは書けそうになくて困っている。

 「科研費とあまり縁がない」といっても、どの程度縁がないのかおわかりにくいと思うので、具体的に述べよう。2008年度以後は「基盤研究(B)」を連続して採択していただいているが、それ以前に私自身が代表者として応募した科研費は2件のみである。ありがたいことにいずれも採択していただいたが、最初が34歳のときの「奨励研究(A)」、次が50歳のときの「基盤研究(C)」で、両者あわせて380万円である。桁を間違えているのではないかとお感じの向きもあるのではなかろうか。

 これらの科研費はいずれも大事に使わせていただいたが、自分の研究にとって科研費がどうしても必要であると感じたことは、正直なところ、ほとんどない。30歳代後半から40歳代にかけて全く科研費に応募しなかった十数年間も、困難を覚えたことはなかったし、研究の質や量が低下したということもない(と信ずる)。それでは当時大学の教員研究費を潤沢に使っていたのかというとそうでもない。そもそもこの時期私のいた学科では、教員研究費は原則として学生用の図書購入費に充てることが当然とされていたため、校費を自分の研究用に使うという発想そのものがなかったように記憶する。それにもかかわらず、なぜ不足を感じなかったのか考えてみると、以下のような点が挙げられよう。

 第一に、文献史料を用いて歴史研究を行う私のような研究者にとって、研究の質という点から見てまず重要なのは研究時間であり、経費はそれほど重要ではない。理屈の上では、科研費の謝金で資料整理などをしてもらうことによって時間の問題を解決できると考えられるかもしれないが、よほど単純な作業ならともかく、史料を読んで整理するといった作業には、研究者の独特の関心や個性が反映されるものなので、なかなか他人にまかせるというわけにはいかない。従来何度か院生に資料整理を頼んだことがあるが、やはりどうしても満足できず、他人に研究補助をしてもらうというのは自分には向いていないなあと思ったものであった。院生の側でも他人の下請のような仕事は楽しくないだろう。従って、経費があればよい研究ができる、という実感がなかったのである。

 第二に、研究のために自腹を切ることに抵抗が無く、むしろそれを当然としていたということである。人文系で研究経費というとまず図書購入費であるが、文系研究者のなかには、自分の研究に必要な書物は自費で買うことを好む人が多い。やはり書物そのものに愛着があるということであろうか。そこには、自分なりの基準で収集した蔵書というものを、単なる研究道具ではなく、自分の人格を映し出すミクロコスモスのように見なす感覚があるのかもしれない。私も、蔵書というほどのものがあるわけでは全くないが、やはり研究に使う本は自分で所有しないと気が済まない口で、大学に所蔵されていて利用できる本でも、同じ本を自分用に買っていたものである。もちろん大部で高価な史料集などを自費で買うことは困難だが、それらについては、日本にいくつかある大規模図書館が潤沢な資金で買いそろえてくれているという安心感があったのである。

 以上のようなことを述べると、「それでは人文系には科研費は必要ないんだな」と思われる方があるかもしれないが、それはもちろん私の本意ではない。人文系のなかにも、高額の経費を必要とする研究はもちろんある。また、私が「科研費の必要性をあまり感じない」などと言っていられたのも、定職があり、切るべき自腹を持っていた故であって、昔も今も本当に経費の足りない若い研究者がたくさんいることは言うまでもない。特に出版助成などは若手研究者にとって大きな意味を持つだろう。それにもかかわらず、敢えてこのようなことを述べたのは、文系学問の少なくとも一部に存在していた上記のような「あえて科研費に応募しなくてもよい」といった姿勢を、今日の時点でどう評価するか、考えてみたいからである。

 常に指摘されるように、運営費交付金の削減に伴って大学の財政難は進行し、科研費はそれを補う役割を担わされつつある。2008年以後、私が連続して科研費に応募しているのも、そのような諸般の事情に押されてのことである。さらに、このような状況のもとで、科研費の取得額が研究者としての能力と同一視されて人事に影響するような傾向も生まれている。科研費に応募しない研究者は次第に肩身が狭くなっており、あらゆる研究者に科研費取得の圧力がかかっている。

 しかし、科研費を取らなくても研究の質が変わらないとすれば、科研費に応募しないことは、財政節約の見地からいって、推奨されこそすれ、非難される謂れはないはずである。個々の大学から見れば間接経費の減少を招くことになろうが、日本全体の学術という観点からいえば、より必要なところに資金を回せるのである。節約に寄与する人が非難されるというのは、どこか間違っていないだろうか。もちろん、科研費を取らないことによって研究の質が落ちてゆく可能性もあろう。しかしそれについては、研究成果そのものに即して検討すればよいことであって、本当の「競争」は科研費の額においてではなく、むしろ研究成果においてなされるべきなのである。このような「節約」論は、時代遅れに見えるかもしれないが、国民の負託を受けた大事なお金である科研費をいかにして有効に使うかという点については、素朴な節約の論理に立ち戻って考えてみることも必要であろう。

※所属・職名は執筆時のものです。

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