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科学研究費助成事業

制度概要

私と科研費

 「私と科研費」は、科研費の広報活動の一環として、これまで科研費によって研究を進められてきた方々や現在研究を進められている方々の科研費に関する意見や期待などを掲載するため、平成21年1月に新設したものです。

 毎月1名の方に原稿を執筆していただいています。



■No.9(平成21年9月発行)

「種芽木林森-それが科研費-」

東京工業大学長 伊賀 健一先生
伊賀 健一
東京工業大学長

 文部省の科学研究費補助金(科研費)を最初にいただいたのは、東京工業大学の博士課程を1968年に修了し、同大学 精密工学研究所の助手になってからまもなくのことであった。大学院の時には、指導教官の末松安晴助教授(当時)の元で、科研費応募準備の手伝いをしていたが、開設されたばかりの研究室で、その頃は未知数であったレーザや光伝送がテーマだったせいか、採択になることはなかった。研究所の福与人八教授の研究室でも科研費の応募をしていて、様式に和文タイプを外注してきれいに仕上げるノウハウを学んだ。そのうち奨励研究ができて、助手の身分でも自分のテーマで応募できることになり、早速応募し、採択になった時は本当に嬉しかった。一件50万円くらいが限度で、支給額は40万円くらいであったと思う。熱帯魚を飼う水槽のような恒温槽の装置を購入して、プラスチックファイバ/レンズの重合を始めたのであった。それが、後にマイクロレンズアレイから微小光学研究の発端となった。6年半ほど助手をしていたのだが、奨励研究は1年ごとだったので毎年応募して4回くらいはもらえたと思う。不採択の時はまことに残念で、研究費もなく困ってしまった。後年、科研費の審議会に関係するようになって、奨励研究も2年間にすべきと主張したのも、若い頃の経験からである。

 1974年に助教授になって、自分の発想で科研費に応募できるようになったのは本当に嬉しかった。しかし、世の中はそんなに甘くはない。助手の時代にもあまり論文は書けなかったし、新しいテーマではなかなか採択してもらえない。力となってくれたのは、新しいテーマに魅力を感じて入ってくれる博士課程の学生諸君であった。1977年に面発光レーザを発明したのだが、少しずつ科研費にも採択されるようになり、半導体レーザの製作に必要な装置を手作りで準備する基礎となった。「測定器は借りても使えるが製造装置は作らないとだめだ」という末松教授の教えがあって、主に「ものつくり」に費用を使った。

 1979~1980年に米国ベル研究所へ客員として留学した。このブランクは科研費を返納したり、応募ができなかったりで痛かった。やがて、面発光レーザやマイクロレンズの研究も進み、科研費も次第にもらえるようになった。その頃、「特別推進研究」が始まり、東京大学の榊 裕之教授や、末松教授がこの大型予算を獲得して、研究室は日の出の勢いであったが、いつかは自分も挑戦してみようという気も起こった。やがて、1986年にその時がやってきた。面発光レーザの室温連続発振と並列光集積回路実現を目的として特別推進研究に応募したら採択となった。それまで、とても買えなかった超高真空の化学ビーム結晶成長装置が手に入った。同時にそれまでの科研費で完成していた有機金属結晶成長装置を使って、面発光レーザの室温連続動作が達成できた。現在グローバルCOEのリーダーを務める小山二三夫教授(当時助手)らの努力が実を結んだ。

 それからさらに10年、文部省最大の科研費COEが始まり、これに挑戦して第一期の採択となった。同期の研究者に野依良治教授や佐藤勝彦教授らがいる。これにより、世界の大学に負けない「超並列光エレクトロニクス」の拠点が形成でき、その後小さいながらもマイクロシステム研究センターに発展した。

 国立情報学研究所のKAKENデータベースによると、1969年から2001年の間に34件の科研費をいただいたことが分かった(特定領域研究などの班研究も含む)。筆者の研究の支えになったものは、これまで述べたように科研費をおいては考えられない。東京工業大学では、助教授も教授と同じ予算配分とテーマ選択の自由があった。それと、筆者の研究を応援いただく企業の皆様からの奨学寄附金には、上記の公的研究費を有効に使う柔軟性を与えていただいた。

 さて、2001年に大学を退職後、日本学術振興会に理事として務めることとなった。同僚であった木曽 功理事の部屋にあった金魚用の水槽を見るにつけ、最初に科研費で買った恒温水槽が思い出されるのだった。それまで、応募者として不満を持っていた科研費の応募様式を少しずつ改良して、研究者が緊張感と納得をもって書いてもらえるように努力した。担当職員もよくそれに応えていただき、「世界の科研費」として恥ずかしくない水準にできたのではないかと思う。その後、「学術システム研究センター」の立ち上げにも参画し、さらに改革を目指せるようになってきた。

 2007年、思わぬ出来事が起こった。東京工業大学の学長になったのだ。また、科研費をいただく側に戻ってしまった。大学の諸君がうまく応募してくれれば良いのだが、なかなか思うようにはいかないものだ。これまで「科研費」は、日本の学術に関する基礎研究を根本から支えてきた。これなくして日本の学術に将来はない。採択率を現在の20%から倍増して40%にしても、それに耐え得る研究は十分にある。

※所属・職名は執筆時のものです。

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